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「機嫌が悪い」はどこから来るのか?

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「機嫌が悪い」はどこから来るのか? どんな人でも機嫌が悪くなってしまう時は、多かれ少なかれある。 機嫌が悪い状態にある時、「ご機嫌は斜め」とも言っていたりもするが、斜めの場合はいわゆるツンデレの場合が多く(筆者経験)、いわゆるかまってちゃんだと捉えている。つまりわざと機嫌が悪いフリをしているだけなので、あまり気にする必要はないと考えている。 ➽➽その機嫌はどんな時に発動されるのか? じゃあ、どんな時に、人は機嫌が悪くなってしまうのか?   自身の目の前で起きているコトやヒトが、自身の期待していたレベルではない状態だとどうなるか?たいていの場合は、「不快」に思う。 期待レベルとの差が僅差であればあるほど、その不快感を長く引き摺ってしまうことにもなるようだ。その差があまりに大きいと、不快感どころか、呆れて笑えてくることもある。 そしてこの不快感は、一瞬にして「怒り」の感情となって、人によっては、表情や声、態度に表れることもある。 余談だが、こういった感情のコントールをできる人を「EQ能力が高い人」という。しかしこれは便宜上そういっているもので、EQの測定をしていない人でもコントロールできている人はできている。(自身のEQ測定はしておくと、自身がどのような時に感情のコントロールが難しいのかが把握できる。) ➽その期待は誰のものか? 機嫌が悪いと顔に出る。この顔は傍で見ていても、気持ちのいいものではない。 長い付き合いになればなるほど、微妙な感情な起伏も表情から読み取れてしまう。 長い付き合いでも顔に出ていると、知らない顔をすることも難しくなるので、その場の空気が重たくなっていくことさえある。 いずれにせよ、機嫌が悪くなるのは、「自分が期待していたレベル以下」のものが目の前にあるからだ。   では、コトにしろ、ヒトにしろ、モノにしろ、その期待は誰が決めたのか? たいていは、自分で決めている。 モノなら宣伝文句に「~が期待できます」というものがあるので、その通り受け取っちゃったという反省で済ませられるし、なんとなれば返品・返金を要求し、二度と購入しないと決めれば、たいていは収まる。 コトであれば、期待以下の体験しか得られなかったのであれば、再現不能な側面もあるので、「なんだかな」と諦めもつくこともある。 ただヒトに対しては期待値以下となると、憤りや怒りの感情が湧くようだ。 例...

わかったつもりでも、勘違いしたまま

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今日、上野駅で発車まで時間があったので、 本屋に立ち寄り、久しぶりにこの言葉を目にした。 「天は人の上に人を造らず」 福沢諭吉の「学問のすゝめ」の一節。 誰もが知っている有名なフレーズ。 そこで思いだした。 以前、私はこの文章の意味を勘違いしていたことを。 20代半ばまで、この意味を「誰もがが平等である」と理解していた。 書かれている言葉をそのまま受取り、解釈しないでいた。 いや、正直なところ、ろくに読まずに、受け売りで覚えていただけだった。 でもそれはちがっていた。 福澤諭吉がいいたかったことは、そういうことではなかった。 そもそも福沢諭吉は「みんなが平等である」とは言ってない。 本当は人に差や違いはないものなのに、残念ながら、いろいろな格差はある。 だから 「学び続けること」で、その差を少しでも埋めていく ことをしましょう。 ということなのだ。 さらには、「 学ぶか学ばないかの差 でもある。」旨も述べている。 だから「学問のすゝめ」なのだ。 本屋でこの本を手に持ち、「知っていたことなのになぁ。わかったつもりが、単なる記憶になっていたなぁ」と感じた。 私の頭の中は、20代半ばまで勘違いしていたままになっていたということだ。 知り得ただけ・わかっただけでは何にもならないことを、はからずも自分で証明してしまった。 自分では気づかないところで、わかったつもりになっていないか?と自問自答する。きっとたくさんあるだろうな。 学ぶ姿勢と学ぶこと。さらに活かすこと。続けること。 「それで?どうするのか?」「で、次は何をするのか?」と 自分への問いを続ける ことは大切だと改めて感じた時だった。 この記事は2011年12月20に書いたものです。 新型コロナウィルス感染拡大防止に向けて、今年(2020年)のゴールデンウィークはステイホーム週間になりました。 この際、改めて自身の学ぶ姿勢を見直し、学び、さらに活かし続けようと思った次第です。(2020.04.29追記)

利他を育てるリタレンジャー

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このところよく耳にする言葉に「利他」という言葉がある。 ある企業グループでは、1人の熱心なトップがいいだし、そこから広まった。 「利他でなければならない」と言い出した。 その時の私は、「利他」そのものは仏教用語であること、稲盛和夫氏がその経営哲学としてお持ちだったことを知っていたので、何をいわんとしているのかはすぐにわかった。    しかし、 利他というのはカタチのあるものではない 。 こうしなければならないというのは、基本的にない話だ。 それをカタチにすること自体はマナーであり、ルールになってしまう。 わかりやすいのはボランティアだろう。 自発的に相手のためのボランティアをする。これ以外にない。 規則としてボランティアに参加するのは感謝されど利他ではない。 そこには自分の意志としての利他がないからだ。 あくまで心の話なので測定することやカタチにすることは」極めて困難なものだ。 というような話しをして、そうはいっても、この心の在りようを広めたいという・・・ なんとも無理難題だなぁと思いつつ、ひとまず話を聞くことにした。 ➽➽利他の心を持つ会社にしたい? ●「それは最初からそういうつもりでやってる人達もいるし、そうでない人達もいるということですか?」 そうなんだけど、特に営業の動きを変えていきたいんだよ。 ●「いつ頃から、そのようなお考えを持つようになられたのですか? 以前、過去にかなり業績が伸び悩んでいた時期があってね、グループ内で上位になれなかった、その時は諦めようかとも考えたし、今後もトップになれなかったら辞めることも考えるつもりなんだよ。 ●「駄目だったら辞めるっていうのは、トップがよく言う言葉として聞いておきますが・・・その考え方自体はどうなんですか?それも含めて利他の心というものですか?」 ・・・違うかもしれない。。。いや、明らかに違うな。なんだろうな。私はどうすればいいんだろうな。 <2021.03.08追記> 当時の私は相当エラそうに突っ込んでいたように思えます(苦笑) ●「もう答えはお持ちのような顔をされてますけど?」 まいったな。お見通しか・・・そうだね。まず私が利他の心に立てるかどうかだよね。 ●「例えば毎年100万円かそれ相応のことを地域行政関係に寄付することと、同じ金額をお得意様だけへのサービスに当てるのであれば、どちらが利他となりますか?」...