書くこと・書きとめること

メモやノートに書きとめること。これは企画ということを仕事にする以上は絶対だし、考える仕事を仕事をしている人であれば絶対に外せない。メモもノートも取らないのは考えること自体を放棄しているのではないかと思える。

➽➽メモやノートを書かねばわからなくなる

書いていても、わからないことはある。
わからないものはわからない。
ましてや書かないのであれば、何を基に考えるのか?
記憶だけで考えられる人は天才だけだろうと思う。

➽教科書に直接書く。

最初に書きとめることを憶えたのはいつだっただろう。
はっきり覚えているのは、5年生と6年生の選抜メンバーで構成されるオーケストラ(リコーダー中心)に、4年生ながら強引に入れられた時のことだ。
理由は簡単で「楽譜が読めて、オルガンが弾けるから、エレクトーンも弾けるだろう。以上。」ということだった。

そのオーケストラ練習の時に先生が毎回、激しく早口でいろいろと指示を出してくる。授業のように板書などをすることはなく、もっぱら口頭。周りの先輩は、一生懸命メモを取っている。楽譜に直接書いている。そういうわけで、同じく楽譜に直接書き込むことをしていた。
こうなると、それまで教科書と別にノートを書いていることにあまり意味がないと感じはじめ、直接教科書に書き込むことをやりだした。書くスペースが足りないのなら、メモを貼りつけていた。
学年の終わり頃には、教科書とノートは一体化していた。

➽やはりメモもノートも必要だ

しかし高校生あたりの授業になると、板書が重要になってきた。どの教師もきちんと整理した状態で、板書する。そうすると口頭・口伝部分がテストに出るところだとわかってきた。それで板書以外のこともノートを取るようになった。これがずっと続いて大学卒業まで続く。もちろんノートの取り方に工夫を重ねることになるけども、最終的に落ち着いたの授業ノートは2ページ見開きで上半分に板書通りに書き、下半分に口頭で伝えられたことを書いていた。
そうして年齢を重ねていくにしたがって、ノートとは別にメモ帳を使う量が増えていった。

とどめを刺したのは大学時代のアルバイトであることは間違いない。ファッションモールの企画アシスタントというバイトは、社員さんと街ナカに出て、写真を撮り、道行く人にアンケートをとり、集計し、企画会議する。もちろんみんなで考えるということなんてない時代で、社員もバイトも関係なく、一人一案以上を持って出席しなければならず、このため、思いついたことや、いいなと思ったことをメモを書き留めることは、必須となった。

社会人になっても、メモを取る事は当たり前で、なんら変わることはなかった。
集計結果とメモを頼りに、考え、推察し、仮説を立て、コンセプトを導き出し、文章化し、図解化し、一つの企画書やら計画書やらになる。この流れはバイトで叩き込まれたもので、現在もこれがベースになっている。

そうこうしている内に、見聞きした情報や自分で考えたことも、あるフィルターにかけ、必要と思えることだけを書きとめるようになった。いわゆる取捨選択。いや今風にいうと断捨離か。

➽➽書きっぱなしでシナプス崩壊

ところがある日気づいた。
物事を考えている時、「あれはなんだったっけなぁ?」と思いだそうとしても思い出せないことが多々でてくるようになった。
それが考える上で実は非常に重要であったにも関わらず。

その時は、必要ないものとして捨てたというか、書きとめていなかったということ。当時は、これほどアホな話はないと思ったものだった。
後から調べようにも、何だったかとっかかりもない。
ましてやインターネットもなかった時代。
検索は当然できないし、できるといっても脳内検索でしかない。
シナプスが、20代後半にして崩れ始めており、この時点で「ヘタな考え休むに似たり」を実感した。
かくしてメモを取る時は、可能な限り、書きとめることにした。

➽単語レベルより状態表現で書く

しかしこれで済まなかった。
書きとめることが多くなると、書くのはどんどん「単語」レベルになっていく。
その時はわかったつもりでも、数日経つと、その「単語」がどうなのかがわからなくなった。これでは書きとめている意味がないではないか!と思えた。

それ以来、メモは必ず状態表現で書くようにした。
書きとめるようにすることには変わりはないけれど、可能な限り書くようにした。
そのうち、速く書く方法を見出すしていくわけだが、それはまた別の話なので、またいずれ。


ともあれ、こうやって、人の話だろうが、自分の考えだろうが、ニュアンスも、ほぼ確実につかめるようになった。

ところが、これで済むわけではなかった。
書いたものがたまる一方で、今度は、溜まったもので収集がつかなくなってしまったのだ。
ここで必要なことは、しっかりと整理すること。

➽書きっぱなしで役立たず

それまでも整理はある程度はしていたが、あくまで必要に応じてのみで、都度やる程度。これではどうにもならん・・・ここは相当悩んだ。
すぐに役に立てる場合は、何も問題はないけれど、後々に役立ちそうと思ったものは、そのままにしているとニュアンスは残っているけれど、何に役立ちそうかという直感的に捉えたことがわからなくなる。

そこで書きとめたものは、定期的に一旦整理することにした。都度やるということをやめた。そうすることで、いつでも取り出せる情報として蓄積するようにした。
これには整理する際のコンセプト、それに基づいた図解とキャプション、ちょっとした解説文でまとめるようにした。

しかしまだ落とし穴があった。
整理しても整理しても、書きとめる量が多く、整理が追っつかないという事態に陥った。まるでイタチごっこ。

これはいかんと思ってやりはじめたのが、今で言う「GTD」的な考え方をするようになった。

➽整理するものを見直す

一旦、取捨選択せずに可能な限り書きとめるのだが、1テーマごとに改頁。例え1行しか書かなかったても改頁。これを徹底した。書き留めるノートは週2~3冊が通常で、多い時は一日一冊ということもあった。といっても30枚程度のノートに2行を1行と見立てて書いていた。

次に、ここが肝心となるのだが、すぐに整理する必要があるもの以外は一旦寝かす。そのままにしておく。約1週間。

1週間~10日ごとに寝かせたものを見直す。時々2週間。
きちんとルーティン化してしまえば楽という話もあるが、考える行為にルーティン化の意味はあんまりないと捉えているので、だいたい1週間で良いとした。

普段はGTDの考え方で毎日を過ごす。これがベース。
GTDの詳しくはこちら
細かいことを正確にやることが大事なわけではない。このプロセスをやれば、それで十分だった。なので「なんちゃってGTD」で十分だった。

そして見直す時は、以下の2つに分ける
①整理したいと思うもの
②もうちょっと寝かすもの
それで①のみを整理する。
方法は単純で、①のページは整理後ちぎって捨てる。裏頁に②があれば、整理した頁に大きく×を書く。そうやって残ったノートを一箇所にまとめて置いておく。この置いておく場所を「留置場」と名付けていた(笑)。

1ヶ月後②から捨てるものを分け、捨てるようにし、残ったものを整理するようにした。
こうすることで、随分楽になったし、整理が追っつかないという事態に陥ることも、ほぼなくなった。

現在はパソコンという便利なものがあるので、それで整理しているが、AndoroidやiPhone、タブレットという強力な道具が出てきたので、クラウド利用に移行中。これにういてもそのうち書くつもり。

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【2022.01.09追記】
上記は2010年9月に書いていたものです。今や日常的に取るメモはパスポートサイズのノートになりました。もっぱら外出時にメモを取るためだけですが、実際に書くことはほとんどありません。現在はスマホに音声入力・音声認識入力という便利なツールがあります。精度も高く手入力する手間はほぼなくなりました。
整理する頻度も、定期的というよりも気が向いたらに大きく変わりました。
物理的なメモが圧倒的に少なくなり、データとして残っていて、タグづけをしているので、検索すれば、それだけで、ある程度整理できてしまうからです。
これにAIを活用していけるようになれば、さらに考えるための時間を確保することができるなと嬉しがっているところです。


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